哲学者が教えてくれるもの
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なぜ勉強しないといけないの?
人間とロボットは何が違うの?
デカルト
『規則論』
『方法序説』
『省察』
『哲学原理』
『情念論』
『規則論』 アリストテレスの認識論を基礎にしたもの p8
「絶対的なもの」・・単純本性を内に含む。「独立的」「単純」「普遍」「一」「相等」「類似」「直」
「相対的なもの」・・単純本性を分有するもの、相対的。
単純本性・・三種類に分類される p9
「純粋に知性的なもの」…「生具の光」により物体的心像の助けを借りずに認識されるもの。「認識とは何か」「疑いとは何か」
「純粋に物体的なもの」…「形」「延長」「運動」
「共通的なもの」…「存在」「統一」「持続」といった概念で、これに「共通概念」「欠如」「不定」が加わる
単純本性の3つの性格規定 p9
第一に、それ自身によって知られ、けっして虚偽を含まぬこと
第二に、それ以上分割されえないものであり、知性によって直観されるものであって、肯定、否定の複合判断にかけられるものではないこと
第三に、知性によりただ触れられることによってその本質全体が知られるようなものであること
『省察』
<方法的懐疑>
「ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げ捨て、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうかをみなければならない」(『方法序説』A.T.Y,p.31)
・(外的)感覚経験について
「感覚が時として誤る」という経験的事実から「外的感覚経験において与えられる事柄一般に信頼を寄せない」ということを決定する。
・身体的内的感覚について
夢をとりあげ、「覚醒と睡眠とを確かな標識によって区別することはけっしてできない」と断じ、身体的内的感覚として体験される事態も事実に対応しない真ならぬこととみなされる。
・数学的真理について
「欺く神(Dieu trompeur)」、「悪霊」が「(数学の証明)のようなわれわれにはこのうえなく明白にみえる事柄でさえ、われわれが常に誤るようなものとしてわれわれを創造することを欲したかもしれない」という想定をもとに懐疑を遂行する。
「私は、私の見るものはすべて偽であると想定しよう。偽り多い記憶の示すものは何一つ決して存在しなかったのだと信じよう。私はまたまったく感覚器官を持たないとしよう。物体、固さ、延長、運動、場所などは幻影にすぎぬとしよう」
「それならば真であるのは…何ら確実なものは何もないということ、だけであろう」
「すべては疑わしく、したがってすべては偽であると見なさなければならない」
↓
では「(そのような)疑う余地が少しもないようなものは何もないということをどこから知るのか」
↓
「おそらく私自身がそういう考えの作者でありうる」「それならば、少なくともこの私は何者かではないのか」(A.T. Z,p24)
↓
「<私は有る、私は存在する>というこの命題は、私がこれを言い表すたびごとに、あるいは精神によって捉えるたびごとに、必然的に真である」(A.T.Z,p25)
「私はそれまでに私の精神に入り来たったすべてのものは、私の夢の幻想と同様に真ならぬものである、と仮想しようと決心した。しかしながら、そうするとただちに私は気づいた。私がこのように、すべては偽であると考えようと欲している間も、そう考えている私は必然的に何ものかでなければならぬ、と。……それで私は「我思う、ゆえに我有り」という真理を私が求めていた哲学の第一原理として安心して受け入れることができると判断した。」(『方法序説』A.T.Y,p32)
「われわれはわれわれが考えるものであるとうことに気づくとき、それはどんな三段論法からも帰結されないある第一の概念なのである。まただれかかが<私は思惟する、それゆえ私は有る、すなわち私は存在する>という場合、彼は彼の存在を彼の思惟から三段論法によって演繹するのではなく、精神の単純な直観によって自ら知られたものとして認識するのである。そのことは、もしそれを三段論法によって演繹するというのなら、彼は前もって<思惟するものはすべて有る、すなわち存在する>という大前提を知っていなければならなかったであろうということから明らかである。しかし反対に、彼はその大前提を本当はむしろ、自分が存在しなければ自分が思惟するということはありえないということを自らのうちで経験するということから学ぶのである。というのも、一般的な命題を特殊なものの認識から形成するというのがわれわれの精神の本性なのだから」(『第二答弁』A.T.Z,pp140-141)
<精神の優位>
「我の本質は(身体から独立の)思惟するものである」
「われわれの精神は物体(身体)よりもより先に、より確実に知られるばかりではなく、より明証的にも知られる」(『哲学原理』ParsT,a.11,A.T.[-T,p8)p160
<デカルトの循環>
<神の存在証明>
「無限者(神)の認識が実は有限者(我)の認識よりもある意味で先である」ということが了解されなければならない。(『省察』A.T. Z,p45)p196
「われわれはわれわれの注意を神に向ける前にわれわれに向けうるので、明示的には(explicite)われわれは神の完全性より前にわれわれの不完全性を知りうる。……しかし暗暗裏(implicite)には神と神の完全性の認識はわれわれ自身とわれわれの不完全性の認識に常に先行していなければならない。実際に、われわれの不完全性は神の完全性の欠如ないし否定であって、あらゆる欠如ないし不定は、欠如がそれにおける欠如であり、否定がそれについての否定であるところのものを前提しているのであるから、神の無限な完全性はわれわれの不完全性に先行しているのである」(『ビュルマンとの対話』A.T.X,p153)p197
「私は、精神の眼を私自身に向けるとき、単に私が不完全で他のものに依存するものであり、たえずより大なるもの、より善きものを無際限に希求してやまぬものであることを認識するばかりではなく、同時にまた、私が依存するものがそれらのより大なるものをすべて、ただ無際限に可能的にもっているだけでなく、実際に無限に自分のうちにそなえており、したがってそれは神であることをも認識するのである」(『省察』A.T.Z,p51)p201
・知性が擁する無限かつ最高に完全な存在者の観念とその観念内容およびその観念をもつ我の存在に適用される因果性の原理p212
・中心となるのは「何ものにも欺かれまいとする意志」ではなく、諸所の観念の表現的実在性を表象する知性の能力p213
・「無限で最高に完全な存在者」が我の存在に先行して現実に存在することを確信するのに決定的な役割を果たすのは、「疑い、欲すること」p213
<人間の意志と自由の概念>
誤謬論
人間は誤りうる意志を持ちながらも、その意志を正しく用いることによって誤謬に陥らないようにすることができ、そのことにこそ人間の最大かつ主要な完全性がある p229
「人間の最高の完全性は自由にすなわち意志によって行為するということであり、これによってこそ人間は賞賛または非難に値するものとなる」(『哲学原理』第1部、37項表題)
<神の存在証明からの導出>
「純粋数学の対象であるところの物体的本性すべてについても、無数の事柄が明らかに知られうるのであり、確実でありうるのである」(『省察』A.T.Z,p71)p257
「私の本性あるいは私の本性はただ思惟するものであるということだけに存する」p278
<物質的事物の存在証明>
第一に、外部感覚とくに「場所を変えたり、さまざまな姿勢をとる」という身体的操作能力の特性である p284
第二に、外部感覚においては感覚的事物の観念が「私の意に反して」もたらされるという受動的、強制的事態の意味の解明をここで最終的におこなう
p284
<精神と身体の実在的区別>
「精神と身体の間には、身体はその本性上つねに可分的であるが、精神の方はこれに反してまったく不可分であるという点で大きな差異がある」p288
『哲学原理』Principia Philosophie 1644
<永遠真理創造説>
中世哲学において伝統的に、神の知性内容を構成し、それ自体は創造されたものではなくて、神の世界創造に際して範型の役割を果たすものと考えられてきたイデアすなわち「永遠真理」も、被造物と同様、神によって創造されたものと考える
p333
永遠真理として念頭におかれてあるのは、第一に数学的真理のことであり、したがって、デカルトはこの説によって、永遠の創造されざる真理と見なされてきた数学的真理も、他の物質的事物と同じく、神によって創造されたものにほかならないと主張する。第二に、デカルトは、神はそのような永遠の数学的真理を一方で人間知性のうちに刻印し、他方で自然のうちに、自然の法則を構成するものとして設定したと考える。P333
<自然哲学>
「物体の本性は、重さ、堅さ、色などといったものに存するのではなく、ただ延長にのみ存する」(『哲学原理』第4節)p344
「持続(duratio)」とは「物質が存在し続ける限りにおいての物質の単なる様態」にすぎず(『哲学原理』第1部第55節)、「時間(tempus)」とは、このような意味での持続に付け加えられた思惟様態に他ならないと考えている(『哲学原理』第1部第57節)p345
<物質即延長というテーゼからの帰結>
・空虚は存在しない(『哲学原理』第2部第16節)
・物質はどこまでも分割可能で、不可分の原子というものは存在しない(『哲学原理』第20節)
・宇宙は無際限であり、無際限の(宇宙)空間というものが実在的なものである(『哲学原理』第21節)
・天空の物質と地上の物質とは同一のものである(『哲学原理』第22節)p345
<自然学の力学的基礎>
基本原則
「神は運動の第一原因であり、宇宙のうちに常に同一の運動量を保存する」(『哲学原理』第36節)p347
三つの自然法則
第一に、「いかなるものも、できる限り、常に同じ状態を固持するということ、したがって、いったん動かされたものはいつまでも運動しつづけるということ」(『哲学原理』第37節)
第二に、「すべての運動はそれ自身としては直線運動であるということ。したがって、円運動しているものは、常に、それによって描かれる円の中心から遠ざかろうとする傾向をもっているということ」(『哲学原理』第39節)
第三に、「一つの物体は、他のもっと力の強い物体に衝突する場合には、なんらその運動を失わないが、反対に、もっと地からの弱い物体に衝突する場合には、これに移されるだけの運動を失うということ」(『哲学原理』第40節)
p348
<デカルトの自然哲学の意義>
第一の特質は、延長や形、位置変化としての運動という数学的解析の可能な概念にのみ従って、自然現象一般を徹底して機械論的に解明しようとした点p422
第二に、自然学においては、宇宙の現象と地上の現象を同じ力学的概念や自然法則によって統一的に説明しようという見地が貫かれていること。 p423
<心身問題>
デカルトの心身二元論とは、人間知性が感覚や想像力と独立に存在し、それらに依存することなく物質的事物についての数学的本質観念を構成しうるということを主張することによって、物理数学の可能性を基礎づけようとしたもの。p437
「心身の実在的区別」は、最終的には「第6省察」において、「明証性の規則」を根拠として、精神と身体についてそれぞれ「思惟」と「延長」という明証な観念を他方の観念なしに持つということから結論づけられる。P442
三つの原始的概念p446
様式 活用される領域
「延長」 ― 「想像力に助けられる悟性」 ― 数学ないし物体を扱う物理学
「思惟」 ― 「純粋悟性(意志)」 ― 形而上学(特に魂)
「心身合一」― 「感覚」 ― 日常の生の次元
心身合一の問題、すなわち、思惟実体がいかにして身体を動かしうるのかという心身二元論が提起する問題に対して、それは実践的行為、ないし言語を使用するという原始的な経験的事実としてのみ理解される p446
『情念論』
<精神の情念の定義>
「精神の知覚、または感覚、または感動であって、特に精神自身に関係づけられ、かつ精気のある運動によって引き起こされ、維持され、強められるところのものである」(『情念論』第27節)p448
情念の主な効用
「情念が人間の身体にさせようと準備している事柄を精神にもまた意志させようとして、精神を促し、方向づけること」(『情念論』第40節)
情念の6つの基本的分類 p451
「驚き」「愛」「憎しみ」「喜び」「悲しみ」「欲望」
<道徳的問題>
「道徳の主要な用途は欲望の統御ということにこそ存する」(『情念論』第144節)p554
高邁(コウマイ)generositeな心
「一方で、自己が真に所有するといえるものとしては、自分のもろもろの意志作用の自由な使用しかなく、自己がほめられるべき理由としては、意志をよく用いるか悪しく用いるかということしかないと知ることであり、また他方、意志をよく用いようとする確固不動の決意を自己自身のうちに感ずること、すなわち、自ら最善と判断するすべてを企て実現しようとする意志を、どんな場合にも捨てまいとするところの確固不動の決意を自己自身のうちに感ずること」である(『情念論』第153節)p454
このような、「自由と絶対的な自己支配」を重んぜしめ、「他によって奪われるようなすべての善を軽視せしめる」高邁な心というものが「欲望の統御」を可能ならしめる p455
参考文献:『デカルト哲学の体系 自然学・形而上学・道徳論』小林道夫 勁草書房 1995年
引用については『アダン・タンヌリ版デカルト全集』(略号A.T.)のあとに、この参考文献のページを記してある。