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アウグスティヌス Aurelius Augustinus 354−430  教父哲学の完成

「自己と、自己の根源である神とを知ることが哲学の課題であり、それ以外に知りたいものはない」  

 アフリカのヌミディアのタガステ( Thagaste)に生まれる。父は異教徒であったが、母は敬虔なキリスト教徒であった。若い頃放縦な生活を送ったが、やがてキケロの『ホルテンシウス』(Hortensius)を読んで哲学に心を惹かれ、マニ教・アカデメイアの懐疑論に解決を求めたが満足しえず、新プラトン主義の影響によってそれを基礎としてついにキリスト教に入った。387年に受洗し、391年に司祭となり、396年よりヒッポ(Hippo)の司教として活動した。

[著作]
『独語録』(Soliloquia)
『自由意志論』(De libero arbitrio)
『告白』(Confessiones)(ルネッサンス以来最も広く読まれる)
『三位一体論』(De trinitate)
『神の国』(De civitate Dei)

 

『告白』全13巻
第一部
  「偉大なるかな、主よ…あなたはわたしたちを、あなたに向けてお造りになり、わたしたちの心は、あなたの内に休らうまでは不安なのです」(序文)
 第一巻 少年時代 
 第二巻 青年時代
 第三巻 学習の過程でキケロの『ホルテンシウス』を読んだ感動、その後マニ教の仲間に入ったこと
 第四巻 修辞学の教師になり、女性と同棲したことや、親友の死について
 第五巻  マニ教に疑問をもちはじめ、またローマからミラノへ移った過程
 第六巻 アンブロシウスとの出会い、親友アリピウスについてのエピソード、愛人との別れ
 第七巻 新プラトン派の書物を読むことによって大きな思想的転換を経験したこと、神の本性ならびに悪 の起源をめぐる思想的葛藤
 第八巻 回心の経験と自由意志をめぐる省察などをそれぞれ述べる
 第九巻 新しい生活への出発と母モニカの死について語り、とりなしの祈りによって締めくくられる。

第二部
 第十巻 まず告白することの意味を問い、そして自分がこのように激しく神を求めているのは神をどこかで知ったからにちがいないが、それはどこか、という神との出会いの場を探して自己の精神の奥深くに入り込み、有名な「記憶論」を展開する。後半ではさまざまな誘惑について述べ、それぞれに対して自分がどのような状態にあるかを、自己点検している。

第三部
 第十一章
神は天地を創造する以前には何をしていたのかという異論を契機として、「時間論」を展開する。神の創造の働きそのものは永遠の行為であり、時間は天地の創造とともに始まった、すなわち時間もまた神が創造したものであり、したがって神の創造のわざについては、「以前」とか「以後」とかいうことは問題にならない。過去・現在・未来とい時間の3つの様相や時間を測る経験の分析を経て、「時間とは精神の延長である」という独特な時間の定義が示される。

第十二章& 第十三章 
 聖書の言葉の比喩的な解釈が試みられ、さまざまな解釈の可能性が検討される。神の安息に与って永遠の休息に入れられることを願いつつ、『告白』全巻が閉じられる

内なる超越
 自己自身への帰還(新プラトン派より)
 自己を内的経験の確実な場としてとらえ、その確実性によって真理を求めるという途をとることによって懐疑論を克服し、さらにこの内的経験に深まることにおいて、神の照明(illuminatio)としての知的な光に援けられて、魂の眼によって、しかし自己自身の精神を越えた位相(supra mentem)において、真理(veritas)、不変の光(lux incommutabilis)、永遠(aeternitas)、神の真なる愛(vera caritas)と出会うという、いわゆる内なる超越の途を説いた。(『告白』7・10・16)

  この思想は魂の内に神の三位一体の影(記憶、知性、意志)を求めてゆき超越の位相において三位一体としての神にふれるという思想に発展。

 

『三位一体論』(De trinitate) 全15巻
三位一体…「神である父と子(イエス・キリスト)と聖霊は三つの存在、位格(persona)にして一つの実体(substantia)・本質(essentia)である」
(二世紀来のギリシア教父やラテン教父と呼ばれるキリスト教神学者たちの努力により、さまざまな異端思想との論争を経て、ようやく四世紀に正当信仰として確立した教義)

 わたしが読むことのできた範囲で、わたし以前に、神である三位について書いたカトリックの新約・旧約聖書解釈者はすべて、聖書に基づいて次のように教えることで一致している。父と子と聖霊は、一つ同じ実体に属し、不可分の同等性を有し、神の一性を構成している。したがって、それは三つの神ではなくて、一つの神なのである。父は子を生むが、父は子ではなく、子は父によって生まれるが、子は父ではない。また、聖霊は父でも子でもなく、父と子の霊であるが、父とも子とも同等で、三位の一性に属している。この同じ三位が、処女(おとめ)マリアから生まれ、ポンティオ・ピアトのもと、十字架に付けられ葬られ、三日後に復活し、天に昇ったのではなく、ただ子のみがそうしたのである。また、この同じ三位が、イエスが洗礼を受けたときに鳩の形で下ったり、主の昇天ののちペンテコステのとき、天からの声と激しい風とともに日の分かれた舌の形で一人一人のもとにとどまったのではなく、ただ聖霊だけがそうしたのである。また、この同じ三位が、主がヨハネから洗礼を受けたときや、三人の弟子が彼とともに山に上ったときに、天から「お前はわたしの子である」と語ったり、「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう」という天からの声を語ったのではなく、ただ父の声が子に語りかけたのである。とはいえ、父と子と聖霊は不可分的に存在するように、不可分的に働くのではあるけれども。以上はわたしの信仰でもある。なぜならば、これらはカトリックの信仰であるからである。(『三位一体論』一・四・七)

  「父は全能であり、子も全能であり、聖霊も全能である。しかし、ここに三つの全能者がいるのではなく、ただ一つの全能者[である神]がいるのである」(同5・8・9)

三位一体の論理構造 アリストテレスの『範型論』より(『告白』4・16・28)
 神においては何ものも属性的には語られない。なぜなら、神には可変的なものは少しもないからである。けれども、神について語られることのすべてが実体的に語られるのではない。すなわち、父が子に対して、子が父に対してというように、あるものに対して関係的に語られるのであり、これらの名称は属性的ではない。なぜなら、父は常に父であり、子は常に子だからである。……われわれが父について、また子について語ることは永遠かつ不変的なものであるから、その言葉は属性的ではない。したがって、父であることと子であることは異なるが、しかし実体が異なるのではない。なぜなら、父または子という語は実体的に語られるのではなくて、関係的に語られるからである。しかも、この関係は可変的でないがゆえに属性的ではない。(同五・五・六)

 

『神の国』(De civitate Dei)413年〜427年の14年をかけた全22巻の大著
構成と各部の内容…彼自身の『再考録』より

第一部(第1−10巻)―――異教徒への反論
(一) 第1−5巻=社会の繁栄には多くの神々が必要であり、その禁止が災いを招いたとする人々への反論
(二) 第6−10巻=この世の災いのためではなく、死後の生のために多くの神々の礼拝が必要だとする人々への反論

第二部(第11〜22巻)―――神の国と地の国に関する積極的主張
(一)第11−14巻=二つの国の起源
(二)第15−18巻=二つの国の進展
(三)第19−22巻=二つの国の終局

第1〜5巻
異教徒の言う幸・不幸は神々によるのではなく、唯一の真なる神の摂理によること、また、真の幸福とはこの世的・物質的な善ではなく、永遠の生にほかならないこと、さらに、地上的な災いは善き人々の上にも来るが、それを通して彼らが永遠の生へ至る備えができるように試練として与えられているということを語る。

第6〜10巻
・ダイモン礼拝を批判し、さらにプラトン派を批判する。
 死すべき身体と一つになり、悲惨と汚れにまみれた魂を浄めるのは、怪しげな招神術でも御祓いの儀式でもない。自らは至福の神でありながら、人間に永遠の生を与えるべく人間と同じ魂と肉を受け取り、十字架の死によってその肉を捨て、復活によって死を超越したキリストこそ、人間を罪の汚れから浄め至福に導く普遍的な救済の道である。しかしプラトン派の人々は、自らは物体である諸天体を神と言いながら、神の子の受肉を恥じ、軽蔑して認めず、傲慢にもむなしい知識に膨れあがっているのである。

第11〜14巻
 「創世記」第1−3章にそって、二つの国の起源を明らかにする。これらの国は天使と人間から構成されるものであり、人間に先立って造られた天使の中にその起源が見いだされる。

第15〜18巻
 最初の人間たちから生まれたカインに始まる人間の歴史は、自らの意志で神に背き死を罰として負わされ、楽園から追われた悲惨な人類の中から、ある者を恩恵により神の国の永遠の生命へと救い出し、残りの者を地の国の者として永遠の罰へと至らせる、神の永遠の計画が成就される歴史が語られる。第18巻は、アブラハムからキリスト、さらにアウグスチヌスの時代まで、神の国とともに進展した地の国、すなわちアッシリア、エジプト、ギリシア、ローマなど主だった国々、その王たちについて語る。

第19〜22巻
 二つの国の終局(第19巻)、最後の審判(第20巻)、地の国の永遠の罰(第21巻)、神の国の至福(第22巻)を語る。これらは神の計画のうち、これから成就される部分であり、人類の未来である。これらは聖書の預言、特に「ヨハネ黙示録」に基づいて語られる。

 

ドナティスト論駁の著作
『洗礼――ドナティストに対して』(400年)、『ペティリアヌスの手紙批判』(401-5年)、『カトリック教会の一致について』(405年頃)、『ドナティストの文法学者クレコニウスに対して』(405-6年)、『ドナティスト批判――またはアウグスティヌス『手紙』185』417年

「ドナティスト」とは
 アフリカ303−5年にかけてのディオクレティアヌス帝によるキリスト教迫害のとき、当局との摩擦をさけようとしたメンスリウス派のカエキリアヌスが司教に命じられたのに対し、312年、ドナティストを中心として反対した厳格派の人々のことであり、ドナティスト論争はこの時に始まる。迫害時に勇敢な抵抗をしなかった一般の者が司教職に就くのは承服できない、という強硬な意見が出された。

 行状としては、聖職者のみに聖性を認めて、自派の中での洗礼以外は認めず、母を打った若者がドナティストになって再洗礼を受けたり、自分たちの墓地にカトリックを埋葬することを許さなかったり、他派の信徒が彼らの教会へ立ち入ることを禁止したりした。

・司教の人格に重きをおく・・人間の意志によって人間性の完全さに到達するという考え

 

アウグスティヌスの立場
・神による洗礼
 洗礼は神によって、キリストを通して授けられるものであり、人や現にある教会が授けるのではない。洗礼はそれなしに天国に入ることができないのであるから、もともとさまざまな洗礼があるということはなく、カトリックとか分派とかの区別があるはずはなく、それを授ける場所や授ける人、または受ける人の信仰によらない。あくまで神からのものであり、人あり方に左右されない。

・教会の一致とそれによる平和
 洗礼を受けたとしても、カトリック教会に帰ってこなければその効用はない。 「サクラメントの完全さはどこにおいても認められる。けれども、それは教会の一致の外においては、罪の最終的な赦しに役立ちえないであろう」(『洗礼』3・17・22)

・カトリック教会のみがペトロ以来の使徒の正当な後継者なのであって、この意味でのカトリックにキリスト教は統一されなければならない。
「それゆえ、『神は一つであり、キリストも一つ、希望も一つ、信仰も一つ、教会も一つ、洗礼も一つである』(「エフェソ」(4・4−5)ということは、彼自身が述べているように、使徒たちから『わたしたちに伝えられている』のである。したがって使徒たちの時代そのものにおいて希望は一つではなかったが、洗礼は一つであった人たちのいたことをわたしたちは見いだす・・)(『洗礼』5・26・37)

 

ペラギウス派論駁の著作
*ペラギウス著作:『三位一体の信仰』3巻、『聖書の選択』1巻、『聖パウロの手紙注解』
信奉者:カエレスティウス、ユリアヌス
・当時の社会の道徳的刷新を願い、人間の責任の意識を喚起するために自由意志を強調し、実践生活で禁欲の理想を説く。「道徳的完成は人間にとって可能である、ゆえにそれを義務とすべきである」
・ここからカエレスティウスは、「もしそうあらねばならないなら、そうありうる」と主張する。これはカントの命題「あなたはなすべきである。それゆえになすことができる」と同様な事態。しかもペラギウスはこれを神学的に主張し、律法と自由意志の授与は神の恩恵である、と説いた。
・原罪について
 人祖アダムの罪が遺伝によってすべての人に波及しているという思想を批判。(原罪の批判)
・ 恩恵について
 神の恩恵のもとで、律法と自由意志を授与した創造者の恩恵(自然主義的)

 

アウグスティヌス
『罪の報いと赦し』3巻、『霊と文字』、『自然と恩恵』、『人間の義の完成』
・原罪つについて
 自己の内なる罪の計り知れない深淵に目を向け、人間の根源的罪性を追求。罪とは、道徳的退廃や律法違反に先立って、神に反逆して自己のみに立とうとする「高ぶり」である。

・恩恵について
 罪から救う救済者なるキリストの恩恵(罪からの救い・救済論的)。ペラギウスでは恩恵と自由意志とが同一視されていたのに対し、後者では、罪の支配下にある状態から恩恵によって「自由にされた意志」が説かれる。それゆえ、ペラギウスが自由意志の功績から永遠の生命の報酬へと「連続的」に考えていたのに対し、後者はこの連続性を否定している。しかし、自由意志が恩恵によって罪の奴隷状態から開放されると、義の愛が生まれ、愛が律法を実現するゆえに、自由意志の働きは回復されている。

 

思想
 信仰と理性認識
  ・「知解を求める信仰」
 使徒パウロは、「知恵」を追求するギリシア人に対して、自らの立場を「正しい者は信仰によって生きる」と主張したが、アウグスティヌスはこのパウロの立場を継承し、人間の救済における「信仰」の果たす決定的役割を主張。
 ※ しかし「理性の役割」を否定するわけでは決してない。
 1. 人間の本来のあり方は「神的事柄を知性認識すること」に依存する
 2. 「信仰」は「本来、知性認識されるべき事柄」をいまだ知性認識できない場面で有効なのであり、したがって知性認識の前段階に位置づけられる。
 3. 「信仰」と「理性認識」とは別個の能力ではなく相互に関連している。

・「観想の道」と「信仰の道」
  <神の似像>として創造された人間の理想状態として<観想の道>の可能性を残しつつ、この険しい道を辿りえない人間が辿る第二の<回り道>として<信仰の道>を捉えた。後者の中にこそ人間の尊厳を認める。

・信仰とは何か
「信ずる」(credere)・・「感覚認識」(sentire)、「知性認識」(intellegere)と並ぶ、「知識」(scientia)の3つのあり方の一つ。「信」とは、<物体的事物>ないし<可知的事物>を、自ら直接に感覚認識したり知性認識することなく、他者が語る言語を媒介として「真である」と承認すること。
「真とは、語られた事柄が真であると同意することにほかならない」(『霊と文字』31・54)

 

神秘思想
・人間の究極目的
 「神の国における確実な永遠性と完全な平和のうちに神がすべてにおいてすべてである、かの生」(『神の国』9・20)を生きること。それは、「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(「第一コリント」13・12)と聖書に述べられている、あの世における永遠の至福直観の生である。

 

時間論
「すると、時間とは何なのか。誰も私に問わないときは、わかっている。しかし問う人に説明しようとすると、わからない」(『告白』11・14・17)
 ・ 時間とは「精神の広がり」である。
 ・この広がりは現在的なものである。
 ・精神の自覚の三一的構造に由来する
 ・『創世記遂語注解』における「時間の根」
 「創世記」の第一章で語られている六日間の創造は、われわれが経験する時間の流れの中で起こったことではなく、霊的被造物が六度にわたって永遠的理拠を観照し、認識することを通して起こった「創造の出来事」であり、しかもすべてが同時に起こった出来事である。この六日間の「同時にすべて」の創造を時間の根(radices temporum、5・4・11)として、時間の流れとは区別された時間の源、永遠の時間の接点と考える。
 ・ 歴史的時間の一回性、永劫回帰思想に対する批判

 

キリスト教倫理
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」

・幸福のありか
 「なんであれ自分の望んでいるものを持たない人、あるいは、たとえ望んでいるものを持っていてもそれが有害なものである場合、あるいはまた、せっかくよいものを持っていてもそれを持ちたいと望んでいない人、これらの人はみなひとしく幸福とはいえない」(『カトリック教会の道徳』3・4)

「人が自分の最高の善を、望むとともに獲得している場合」、すなわち、この最高善を「愛するものを共有する」という意味で「享受している」人が幸福な人なのである(同3・4)
 ・自由意志と原罪
 ・結婚は善である

キヴィタス(civitas)学説
 ・キケロに基づく
 ・「国家(res publica)とは国民のものであるという。そして国民とは、多数者の結合体ではなく法による利害と共通性とによって結び合わされた結合体であると規定されている」(『神の国』2・21・2)
 ・「民とは法の合意と利益の共有によって結び合わされた多数者の集団である、と彼(キケロ)は定義している」(同19・21)

 

[参考文献]
 『アウグスティヌスを学ぶ人のために』金子晴勇編 世界思想社1993年初版
 『アウグスティヌス』服部英次郎著 勁草書房 1980年初版

 

 

 



 

 



 

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