三国志 THREE KINGDOMS 劉備 曹操 孫権
三国志 THREE KINGDOMS あらすじ




黄巾の乱

桃園の誓い

曹操、董卓暗殺を企てる

美女連環の計

曹操、皇帝を傀儡とする

呂布の死

官渡の戦い
的驢、壇渓を飛ぶ
三顧の礼
長坂橋の戦い

孫劉同盟

赤壁の戦い

司馬懿、周ゆの死、ほう統

渭水の戦い

落鳳坡でほう統が死ぬ

劉備が蜀をとる

定軍山の戦い

劉備、漢中王になる

関羽の死、曹操の死

夷陵の戦い、張飛の死

劉備が死に、劉禅が蜀の皇帝に就く
北伐開始、出師の表

泣いて馬謖を斬る

司馬懿が大都督となる

孔明の死

三国時代の終焉と晋の中華統一





 

あらすじ

★黄巾の乱

西暦184年、後漢王朝の末期に張角(ちょうかく)率いる黄巾賊が大乱を引き起こした。
そこで、反乱鎮圧軍が立ち上がった。

 

★桃園の誓い(とうえんのちかい)

劉備も立ち上がり、関羽、張飛と楼桑村(ろうそうそん)で義兄弟の約束を交わした。

反乱鎮圧軍によって黄巾賊の乱は平定した。

西の辺境、涼州(りょうしゅう)で反乱が起こり、反乱を指揮した韓遂(かんすい)と馬騰(ばとう)が涼州を制圧した。
朝廷は孫堅(そんけん)に涼州討伐を命じ、孫堅はこの責務を果たして、南方の地、長沙の長官職を命ぜられた。

劉備は黄巾賊討伐の功績で県の長官となっていたが、都から見回りに来た役人にワイロを要求されて腹を立てた張飛がこれをいためつけ、やむなく劉備は、関羽、張飛と共に職を捨て、再び放浪の身となった。

董卓は都、洛陽(らくよう)の宮廷に乗り込むと少帝から皇帝の地位を奪うことを宣言した。
董卓は、丁原配下の最強の猛将、呂布(りょふ)を勧誘し、呂布に丁原(ていげん)を殺害させ、盧植(ろしょく)を引退に追い込んだ。
董卓は新たに陳留王(ちんりゅうおう)の劉協(りゅうきょう)を皇帝に即位させ、献帝とした。

 

★曹操、董卓の暗殺を企てる

曹操は董卓の暗殺を企てるが、失敗し、逃亡した。

西暦190年、袁紹(えんしょう)を将として、反董卓の連合軍を結成した。
劉備もこの連合軍に参加し、関羽は董卓軍の武将、華雄(かゆう)を打ち取り功績をあげた。

危険を感じた董卓は洛陽に火を放ち、西にある長安(ちょうあん)に都を移した。
袁紹に進言を聞き入られなかった曹操は単独で董卓配下の徐栄(じょえい)率いる軍勢を攻めるが、大敗した。

その後も、反董卓連合軍では内輪もめが続き、翌年には曹操や孫堅が離脱し、連合軍は解散した。
袁紹は北方にある冀州(きしゅう)を押さえていた韓馥(かんふく)を陥れて同州を手中とし、勢力を拡大させた。

 

★美女連環の計

宮中の役人であった王允(おういん)が、義理の娘である中国四大美女のひとり貂蝉 (ちょうせん)を利用して、董卓配下にあった呂布をそそのかし、董卓を暗殺した。

黄巾賊の残党を討伐した功績が認められた曹操は新たにえん州(えんしゅう)と青州の長官となり、冀州を手中にしていた袁紹との対立が深まった。

曹操の父である曹嵩(そうすう)が徐州を治めていた陶謙(とうけん)の配下の兵士に殺された。
曹操はこれを理由に徐州に攻め込んだが、留守をしている間にえん州を呂布に占拠された。
引き返した曹操が呂布と睨み合う一方、徐州では陶謙が病死し、劉備がその跡を継いだ。

董卓亡き後、その配下であった李カクと郭は献帝を奪い合って争った。
献帝は超庵を脱出し、楊奉(ようほう)がこれを護衛した。
楊奉は献帝の後を追ってきた李カクと郭の軍と戦うが敗北し、献帝は北方へ逃亡した。

曹操は呂布を三度の戦いで破り、えん州で飢饉が起こるとその期に乗じてえん州を奪い返した。
曹操に敗れた呂布は逃亡して徐州の劉備を頼り、劉備はこれを受け入れた。
南方では袁術が後漢王朝の弱体化に乗じて自ら帝位につくことを企てた。
劉備は袁術討伐に向かうが、戦いの末に破れ、呂布に裏切られ、留守にしていた徐州を奪い取られた。
城を失った劉備は曹操を頼り、新たに豫州(よしゅう)の長官に任命された。

 

★曹操、皇帝を傀儡(かいらい)とする

献帝が洛陽で彷徨っていることを知った曹操は、軍師である荀ケ(じゅんいく)の保護の勧めを受け献帝を迎え入れた。
曹操は献帝を擁護する立場となり、大将軍に任命された。
一方、南方では、孫堅の息子である孫策が小覇王と呼ばれるようになった。
勝手に皇帝に即位した袁術は、呂布と同盟して劉備を攻撃し、劉備軍は敗北した。

 

★呂布の死

呂布討伐を決意した曹操は討伐軍を編成し、呂布軍を追撃して下ひ城まで追い詰めた。
城に立てこもる構えを見せた呂布に対して曹操は水攻めを行い、呂布軍は内部に裏切り者を出して崩壊した。
呂布は曹操に捕らわれ処刑された。

その頃、袁術は袁紹の息子を頼って北方へと逃れた。

宮中ではひそかに献帝から命令を受けた董承が曹操の暗殺計画を企て、劉備もその一員に加わった。
袁術討伐を曹操から任じられた劉備はその期に乗じて、曹操の元を離れ、袁術を滅ぼした後、曹操を裏切って徐州を再び手中にした。

西暦200年、董承による曹操の暗殺計画が露見し、董承一族は処刑された。
曹操は劉備討伐の軍を起こし、敗れた劉備は、北方で公孫さんを滅ぼし勢力を拡大していた袁紹を頼った。
関羽は曹操の軍門に下ることになった。

 

★官渡の戦い

曹操は袁紹討伐のため、白馬で袁紹軍と対峙した。

曹操の配下で元は呂布の臣下だった張遼(ちょうりょう)は関羽と共に、袁紹軍の文醜、顔良と戦って打ち倒した。

袁紹配下としてこの戦いの最中にあった劉備は、その場を脱し、南方へと落ち延びた。
劉備の無事を知った関羽は曹操の元を辞して、劉備との合流を果たした。


その頃、曹操は袁紹軍の食糧貯蔵庫のあった烏巣(うそう)を襲撃してこれを焼き討ち、混乱した袁紹軍は官渡で曹操軍に大敗を喫して撤退した。

官渡の戦いで大敗した袁紹は大きく後退を強いられ、2年後に病死した。

袁紹の後を継いだのは三男の袁尚(えんしょう)だったが、長男の袁譚(えんたん)はこれに不服で、二人は対立した。
曹操は袁尚と袁譚の争いに乗じてこれを攻めた。

まず先に袁譚が曹操に降伏し、袁尚は次男の袁煕(えんき)と共に更に遼東半島を支配していた公孫康(こうそんこう)を頼って落ち延びた。
しかし、曹操を恐れていた公孫康は二人をだまし討ちにし、その首を曹操に届けた。
袁氏は滅び、曹操は河北をその支配下において自身の権力を確立した。

曹操が袁氏を攻め滅ぼした頃、劉備は南方、荊州を支配していた劉表のもとに身を寄せていた。

 

★的驢、壇渓を飛ぶ

劉表の攻撃から壇渓(だんけい)を飛び越え逃れた劉備は、司馬徽(しばき)〔水鏡先生〕と出会い、「臥龍(がりゅう)」と「鳳雛(ほうすう)」のどちらかを得られれば天下を安んじられると説かされた。

 

★三顧の礼

劉備は諸葛亮を軍師に迎え入れようと、諸葛亮の住む庵に足を運び、三度目にして対面がかなった。
孔明は、荊州とその西に当たる益州を手中にして足元を固め、その後に曹操の魏と孫権の呉と天下を争うべきであるという「天下三分の計」を説いた。
劉備は孔明を軍師に迎え入れた。

208年、河北を手中に収めた曹操は献帝から皇帝に代わって国を動かすことのできる最高権力の地位である丞相に任命された。
曹操は、南方の制圧を開始した。
曹操軍の侵攻を前に、荊州を支配していた劉表が病死した。
後継ぎの地位を巡って対立が起こった。

 

★長坂橋(ちょうはんは)の戦い

この混乱に乗じて曹操軍は侵攻を進め、劉備は10万の民と南方の地、江夏(こうか)へと逃れた。
張飛は、長坂橋を通るとき橋をきり落とし周辺の林をその20騎あまりに走らせ、砂塵を上げて、大軍が潜んでいるようにみせた。
そして、張飛は橋の前に立ち曹操軍を一喝しひとりで曹操軍を引き止めた。
趙雲は、逃げる途中で行方不明となった劉備夫人(甘夫人)とその子(劉禅)を一騎で曹操の大軍の中から救い出した。

 

★孫劉同盟

劉備は、竜きのいる江夏に身を寄せていた。
曹操の荊州侵攻の様子を探らせようと、呉の孫権は配下の魯粛(ろしゅく)を劉表の弔問を名目として荊州に送った。
孔明はこれを好機と捉え、魯粛と共に呉へとおもむき、呉の重臣との議論を制して同盟することに成功した。

 

★赤壁の戦い

曹操軍の侵攻に対し、呉軍は孔明らと共に、長江の赤壁に集結した魏の艦隊を火攻めにした。
魏軍は大損害を出し、曹操は撤退した。
逃れる曹操を関羽は取り逃がした。

司馬懿(シバイ・字は仲達)が曹操に仕え、4人の息子のうち曹沖の師とした。

孔明は、呉の周ゆに南郡を攻めさせ、失敗したあとにこれを落とした。
劉備は、桂陽、長沙など4郡を攻め、これをとった。
劉備は、呉の甘露寺にて、孫権の妹、小妹を妻とした。
呉の周ゆは、西蜀を攻めるとみせかけ、荊州を攻めたが失敗した。
周ゆが死に、ろしゅくが呉の大都得になり、一方、劉備はほう統を得て副軍師とした。

 

★渭水の戦い

曹操は、西涼の馬騰(ばとう)を都に呼び殺害した。
馬騰の長男、馬超(ばちょう)は韓遂(かんすい)と手を組み、長安を落とした。
曹操軍は、渭水を渡河し、馬超軍らを撃破し西涼をとった。

 

★落鳳坡でほう統が死ぬ

益州の劉璋は、張魯の侵攻を防ぐために、曹操に助けを求めたが得られず、劉備に援軍を求めた。
劉備はその機に乗じて益州へ軍勢を進めた。
益州の張松の裏切りが発覚し、張松は死罪となった。
このとき、劉備軍を率いたほう統が落鳳坡(らくほうは)で戦死した。

 

★西暦214年、劉備が蜀をとる

荊州の留守を預かっていた孔明は張飛を援軍に送り、体制を立て直した劉備軍は益州を掌握し、劉璋は降伏した。
劉備が益州を攻略している頃、一時的に曹操と停戦していた孫権が軍を動かし、魏の攻略に乗り出した。

魏と呉の国境に当たる合肥(がっぴ)城を孫権は大軍で包囲したが、城を守る武将、張遼や楽進の奮戦によって敗北した。
魏と呉の争いはこう着状態に陥いった。

 

★劉備が漢中王になる

漢中を支配していた張魯の降伏を受けた曹操は、益州の劉備討伐に乗り出した。
しかし、劉備は孔明の作戦に従い、曹操軍を大敗させて漢中を手中におさめ、献帝から漢中王に任じられた。

曹操と不可侵条約を締結した孫権は、西暦220年、荊州奪取のため、配下の呂蒙(りょもう)に侵攻を命じた。
呂蒙は荊州城にいた虞翻(ぐほん)や糜芳(びほう)を説得して城を占拠した。

 

★関羽が死に、曹操も死ぬ

荊州の守りについていた関羽は曹仁率いる魏軍と呂蒙の呉軍に挟み撃ちとなり、敗走の上に呂蒙に捉えられ、処刑された。
呂蒙は討ち取った関羽の首を曹操に贈った。
曹操は関羽の亡霊を恐れるようになり、 衰弱した上に死んだ。
関羽を討ち取った呂蒙も、関羽の呪いを受けて死んだ。

曹操亡き後を継いだ曹丕(そうひ)は献帝に帝位を譲ることを迫り、献帝は曹丕にその地位を明け渡した。
漢王朝400年の歴史に幕が降り、新たに魏王朝が誕生した。
漢王朝がついえたことを受け、孔明は劉備に帝位につくことを進め、劉備は孔明の提案を受けて皇帝へと即位し、蜀(しょく)を建国した。

 

★劉備が呉に出兵し、張飛が命を落とす

その後、関羽の仇討ちを諦められない劉備は、呉へと出兵した。
しかし、その最中、張飛に暴力を受けた配下の者が、張飛を暗殺した。

劉備は関羽の息子である関興(かんこう)と、張飛の息子である張苞(ちょうほう)を従え63万の大軍を持って呉の軍勢と激突した。
呉軍は多大な損害を受け、劉備との和平を図るが劉備はこれを拒絶した。
しかし、孫権から新たに総大将に命じられた陸遜は劉備の軍勢を火攻めで打ち破り、劉備は白帝城へ撤退を余儀なくされた。

 

★劉備が死に、劉禅が蜀の皇帝に就く

劉備は心痛のために病の床につき、孔明に後のことを託して息を引き取った。
劉備の死後、皇太子であった息子の劉禅が蜀の皇帝の地位に就いた。

孔明は南方の孟獲率いる蛮族の平定に乗り出した。
孟獲は7度にわたって孔明に囚わるがその都度解き放たれ、ついに孔明に心服し、蜀に降伏した。

 

★孔明、北伐を開始する

孔明は、北伐を開始し、劉禅に古今の名文とされる出師の表をささげ、祁山(キザン)に出陣した。
天水、南安、安定など関西諸郡を攻略し進軍した。
孔明は、姜維(キョウイ)を降伏させ、罵って王朗を殺した。

 

★泣いて馬謖を斬る

魏では、張コウと司馬懿を蜀軍に当たらせた。
張コウは、馬謖(バショク)を打ち負かし、街亭を攻略した。
孔明は、馬謖を斬首し、漢中へ退却した。

 

★司馬懿が大都督となる

228年、陳倉の戦いにて、孔明は陳倉を包囲し攻めたが、カク昭がこれを守り、 孔明は撤退した。
231年、孔明は五回目の北伐を行い、司馬懿と対決したが、兵糧がきれ、撤退した。
撤退の途中、追撃してきた張コウを殺した。

 

★孔明の死

孔明は3年間の間兵士の訓練や内政につとめ、234年、六回目の北伐を開始した。
魏は司馬懿を五丈原にて孔明と対峙させた。
向かい合うこと100日あまり、孔明は五丈原の陣中で息を引き取った。
孔明に後を任された、楊儀、姜維らは、孔明の棺を守って、国都成都に退却した。

 

★三国時代の終焉と晋の中華統

孔明亡き20年後、劉禅の蜀は魏に攻められて滅んだ。
その2年後、魏は司馬懿の孫、司馬炎の建国した晋によって滅ぼされた。
最後に残った呉も280年に晋に滅ぼされた。

 

 

 



 

 



 

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